昭和47年4月19日 朝の御理解
中村良一
御理解 第32節
「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、当たることなし。」
こら、女が菜園に出てと仰ったが、女に限ったことではないと思うですね。まあ、あー、野菜を、おー、作っておる、うー、お惣菜を作らなければならない。だから、えー、裏の畑から大根一本抜いてこいとか。ね。ねぎ、ちっとばかりとって来いとか。というようなふうに、これはまあ、女がする事ですから、女と言うてありましょうけれども、女に限ったことではない。だからその、おー、裏の畑から、野菜をとって来いというような事ではいけない。ね。本当に、神様のおかげで、天地の御恩恵によって、ねぎ一本でも、大根一本でも出来たのだから、本当に大地を拝むような心が、あー、あればおかげがある。そういう心持になればおかげがあると、こういう。ね。ですから、ここは、ほんなら、あー、商売人が品物を売る時に、ね。私が売るのではない、ね、神様に売らせていただく、またその品物自体も、神様のおかげで出来たもの。どうぞ、お客さんに喜んでいただくような、大客さんに買い取られたならば、それが本当に、お客さんに喜んで、お役に立つような、おかげをいただきたいと。そこでその、おー、ま、呉服屋さんであるならば、反物を拝み、お酒屋さんであるならば、お酒を拝み、魚屋さんであるなら、魚を拝むような心持で商売をするならです。そういう心になればおかげがあるというのです。ね。また、それを煮て食べる時、神様頂きますというような心あらば、あたることなし。なら、商売人が、なら、一反の反物を売った。それの代償、お金をいただいた。そのお金を、それは、品物をやったから、お金は貰うのは当たり前というのではなくて、「はい、有り難うございました」といって、お客さんにお礼は言うて、ぽんと金庫の中にお金を投げ込むといったような事ではなくてね。ね、もう、ね。そのお金をいただき、本当に頂きますという心あらば、というのです。だから、お客さんに、有り難うございましたと言うて、例えば、お金をいただく時に、そのお客さんに、有り難うございますという内容が、神様頂きますというような心にならなければならんというのです。あー、まあ、そりゃ、見解、どんなんでも、おー、が持っていけれると思うんですけれどもね。私は、今日、ここんところでですね、ほんなら、果たしてこの、三十二節の、おー、女が菜園に出て、えー、大地を拝むような心持なればおかげがあると仰るし、また、それを煮て食するときに、神様頂きますというような心があらば、あたることなしと仰るが、果たしてね、ほんなら、この三十二節だけを覚えて、金光様のご信心ではない人が、これを実行したから、おかげになるだろうかという事なんです。もう、ここ、二、三日、私が申します、昨夜のお月次祭の後のお説教にも、そのことを、皆さんに聞いていただきましたんですけれどもね。段々、修養さしていただいて、ま、色んな宗教から入る人もある、道徳的なところから入る人もあろうけれどもです。いうなら、自分の思いとか、いわゆる、我情我欲を離れてです。もう、それこそ、どうでも良いといったような気持ちが生まれてくるですね。我情我欲を離す。もう、これは投げやりで、もうどうなっとんなれというのじゃない、決してないですよ。ね。そこんところに、そういう安らいだ心になれるという事は、あらゆる宗教で、それは説いておりますよね。そういう心持になること。ね。我情我欲を離れて、真の道を知れよとこう仰る。金光様のご信心の場合はね。我情我欲を離れるということによって、真の道がはっきりしてくるんです。我情我欲を、ね。そら、我情我欲を離れるという事は、なかなか難しい。自分の思いを捨ててしまう。我欲を捨てるということ。ね。例えば、昔から、まあ、大変尊いいき方として、あの、良寛の、いわゆる、生活のいき方ですね。生きていく、その生き調子というものをです。ね。もう、いつも、いうならば、自然に溶け込んだような生き方。自然と共にです、ね。それこそ、「いるだけは、風がもて来る、落ち葉かな」というように、炊くだけはね、というように、または、あー、良寛が、あー、庵に、いー、ある時分に、自分の座っておる、まあ、机の下のほうがむずむずする、座っておったら。ところがなんとその、畳を突き抜けて、竹の子が出てきよる。ね。そこで、自分のその、ま、勉強机のようなものを、他へ持っていって、自分の座るところを別にして、そん竹の子が、そこを、畳を突きぬいで出るところを、おー、座を譲ったとこう言うんです。段々、段々、それが大きくなって、屋根に、天井につかえようとしたから、とうとう、上の屋根を破って、その、すくすくと伸びる、その竹の子を、に、あの、そういう心を使うたと。そういう、いわば生き方ですね。例えば、ほんなら、一茶という人がおりましたですね。俳句の、おー、まあ、巨匠だったです。ね。一匹のハイを叩くでもです。もうその、一茶の情というものが、ハイ一匹の中にです。虫のハイですよ。ね。「やれ打つな、ハイが手をする、足をする」と。ね。ハイ一匹の中にも、そういう、ほんなら、心情というか、神心を使ったんです。ね。だから、ほんなら、良寛が、大変な、いうならば、その良い生活をしたか。一茶が、その、良いおかげを受けたかというと、受けてないでしょう。ね。それが、どうでしょうか、教祖金光大神の教えに基づいてです。私共が、その我情我欲を取らせていただくことに精進する。または、神心を、一切の上に神心を使わせていただく。または、最近いただきますように、自然に溶け込んでいくという事は、自然を生かすことだと。神様任せになるという事は、ね。神様を助けることになるのだと。ね。だから、その先には、神様が、氏子任せになって下さるといったようなおかげ。自然に溶け込んでいくから、ね。いわば、自然を生かすことになる。その生かす働きが、今度は、氏子、私共自身を生かしてくださる働きになると、まあ、説きましたがです。なら、果たして、金光様の信心を頂いていない人がです。その御教えを、「ほー、そら、なるほど道理だな」と、言うて行じたからと言うてです。ね。そこまでは、例えば、ある意味で悦に言っておられますよね。竹の子が出てきた。はあー、こりゃ、可愛らしい。これを、おー、畳を突きほがしてから出てくるから、もう切ってしまえといったようなもんじゃなくてね。それに座を、場を与えるとか。どんどん伸びて、屋根を突きほがすようになっていったら、こちらの屋根をほがしてから、竹を伸ばしてやったとか。まあ、実に素晴らしい話なのですけれどもです。これは、お釈迦様の説であっても同じこと。キリストの説であっても同じこと。ね。それを、そういう、教えを行ずる事も、それは、確かに、素晴らしいことであるし、けれどもね、あの、おかげは伴っていないのですよ。私は、そこんとこに、大変、まあ、不思議といえば不思議、金光大神の、その、昨日から、私が申します、金光大神は、ね。こういう心の状態になれば、こういうおかげが受けられるという実証をね、なさった方。だからですね、今日のこの三十二節でも、そうです。このまま、三十二節一つを、もう覚えてですね。こら、拝みもせんでも、金光様と言わんでも、ね。お野菜を抜く時に、大地を拝むような心持。ま、という事はです。なら、下駄一つ、履かせていただくでも、下駄を拝むような心持。自動車に、バス代払って乗ったというようなのではなくて、なるほど、それは、バス代も払って乗っておろうけれども、言うなら、そのバスにお礼を言うような心持。と同じと言われるから、そういう心持にさえなっていきゃ、何でもお礼さえ言うて行けば、拝んでさえおれば、また、それを煮て食するときに、神様頂きますというような心あらば、あたることなしと仰るから、そういうふうないき方を、金光様の御信者以外の人が、実行したからと言うて、おかげにならんという不思議があるのですよ。
新、金光様の御理解、教典以外の御理解です。最近これは、本部で出来ました。そのなかにね、えー、「金光様、素盞嗚尊(スサノオのみこと)の神、と、金乃神様とは、一つの神様でございますから、と、まあ、お尋ねをしておるのに対してです。教祖様が、「さいや、」さいやとは、そうじゃと言う意味でしょう。ね、あちらの言葉。「さいや、んー、同じことじゃ、」それっで、その人が、「それで分かりました、有り難うございました」と、おー、言うところから、まだその、内容がありますけれども、最後のところにです、「素盞嗚尊と天地金乃神様とは、一つでござりますか。」と、お伺いせられた。教祖、「そうじゃのお、天地金乃神様は、素盞嗚尊の神ぐらいは、お使いなさるじゃろうのう。」とある。言うてくれてある。まあ、言うところは、「おんなじじゃ、さいじゃ」と、こう言うておられます。ここにあの、教祖の、一つの、神感といったようなものはね。素盞嗚尊などというようなものも、もう、神様とは思っておられないけれど、みんなが、やれ、祇園様のことですよね、素盞嗚尊、ね。けれども、あの、ここでは、あー、金の神、金の神とは、天地金乃神様とおんなじじゃと仰られたり、最後のところには、また、あー、ね。「素盞嗚尊ぐらいは、天地金乃神様は使いなさるじゃろう」とこう言っておられる。ね。だから、言うならば、祇園様にお参りをして、おかげをいただくという事は出来ないということなんです。けれども、天地金乃神様が、お使いなさることになれば、祇園様ででも、おかげは受けられるのです。これは、その辺の藪神小神、ほんなら、お稲荷様でも同じです。ね。祇園様、ね。素盞嗚尊、その人が、助ける力をもってござるのじゃない。少一位稲荷大明神と言うて、少一位稲荷大明神が、いうならば、あー、人間におかげを授けなさる働きを持ってござるのじゃない。天地金乃神様、天地の神様の神恩(かんおん)あってのこと。天地金乃神様のお取次ぎをいただいてのこと。金光、天地金乃神様の御神徳を受けなければ、おかげにはならんのです。ね。そのようなことから、例えば、今日は、三十二節を感じさせていただくのです。ね。「素盞嗚尊、ね。ぐらいは天地金乃神様は使いなさるじゃろう」と。そこで、ほんなら、この三十二節を、金光様のおかげ、覚えさせていただいて、分からせていただいて、金光様の信心をさせていただきながら、この三十二節に徹底するという教えになったら、おかげがある。また、煮て食するときに、あたることないというおかげが生まれてくるのです。どうでも、だからね、いわゆる、生神金光大神と、天地金の神様と、私共というものはです。もう、離れられないもの。でなかったら、教祖が仰ることは嘘になり、それを、私共がいただけば、教祖が仰るように、おかげになるのです。大地を拝むようなことはね。信心の中ででも、例えば、出来た人達はもう、とにかく、一切感謝せんならんと言うて、ま、感謝の心。何にでも、ま、感謝してから、何にでん感謝しますといったような人はあります。なかなか、その、そういう風な出来た人がありますよ。感謝の心が厚い人が。ね。今先ほど申します、その、一茶という人の作った句の中には、非常に、えー、その、自然に溶け込むというか、または、小さい虫けら一つにでも、なら、一匹の蛙一匹の上にでもです、情を使った、ね。ハイ一匹でも、まあ、殺そうとするのを、その、哀れんだ。ね。「やせ蛙、負けるな後ろに、一茶あり」なんていうのはね。実にほほえましいというか、あー、その、情の細かい方であったということが分かります。ね、だから、金光様のご信心を頂いて、そういう、例えば、いき方になったら、もう、素晴らしい、それこそ、天地が自由になる、られるほどしのおかげが受けられるのですよ。私はね、ただ、今日は、地を拝むとか、または、それをいただくときに、戴きますという心あれば、あたることなしという事。それを、なら、金光様のご信心によって、これが行じられる時にです。あたることのないおかげ、または、拝んで抜くような心になれば、おかげがあると仰る、おかげがはっきりしてくるのであって、これを、例えば、ね。えー、まあ、普通の常識人、人(じん)というか、または、あー、なかなかの誠心家といわれるような人達がです。ね。そういう風に、実行したからと言うて、おかげが頂けるものじゃないところにです。何とも言えん、不可思議な働きというか。そこで私共が、金光様のご信心を頂いておるということに、先ず、感謝せんならんです。合楽に、御神縁を頂いておるということに、先ず、感謝しなければならんのです。教祖様の仰る事を、違わぬように、ね。それを、行じて行けば、守っていけばです。必ずおかげが受けられるというのが、金光様のご信心。金光様の、だから、信心を離れたら、同じ考え方であったり、あり方にならせて頂いても、 おかげが受けられんという不思議がある。もう、金光大神のお徳だと思うですね、やはりなんと言っても。金光大神が教えられるから、金光大神が、こう教えておられるから、そういう気にならせて頂くとおかげになる。只今、私が申しました、色んな例話のこと、まあ、例話を言うなら、沢山あろうと思おうですね。あれは、えー、えー、あれは、水戸公でしたかね。お百姓の像を作って、朝晩、んー、それに、奉仕されて、そして、朝晩、感謝をささげられたと。お百姓さんの像を作ってね。ね。お百姓、百姓のおかげで、いわゆる、毎日、米のご飯が食べられるんだと。だから、あー、百姓に感謝したと。だから、今日の御理解で言うと、そういうことになったら、おかげがあるとか、あたることないとかというような、あかげが現れなければならんのだけれどもです。ね。その、金光様のご信心であって、初めて、おかげが受けられるのであって、だから、そこまではね、これはあの、あらゆる宗教、宗派も同じです、教えていることは。ね。たとえば、あー、米一粒にでも感謝せんならん。それを作った、たとえば、お百姓さんに感謝せんならん。ね。けれども、そういう、道理を説いておりますけれども、おかげに繋がってないです。だから、おかげは下作なもんだからと言うて、いきなり、といやあ、それまでですけれども、私共は、どこまでも、おかげを受けなかればならんです。ね。
私共は、三十、例えば、二節の、その事をです。本当に、まあ、いうならば、一切の上に感謝、一切の上に有り難うございます。と、まあ、言うておれば良いということ。此の方の道は、ね。有難い、有難いで開けた道じゃから、ね。有難いという心になれば、おかげが戴かれる。全てのものに感謝し、全てのものに、頂きますというような心にならなければならんと。これは、女だけのことではない。菜園に出て、野菜を抜く時だけのことではない。全ての事に、感謝をしなければならないと。ね。それを、金光様のお取次ぎによって、この御教えが行じられる時にです。おかげがあるという、断言しておられますおかげが、間違いなく頂かれ、それを煮て食する時に、頂きますというような心あらば、と仰るように、ね。触ることも、あたる事もないような、おかげが受けられる。という事を、三十二節には説いてございますけれども、ほんなら、この三十二節をです。教外の人が、はー、それは素晴らしい御教えだと言うて、これを行じたからと言うて、ね。それは、感謝の心が起こって、物事に、全てに感謝を捧げたり、有難い、頂きますというような心の状態という事は、素晴らしいことなんです。だから、その、素晴らしいという、そこまでは、これは頂かれる。たとえば、お釈迦様やら、キリスト様が教えておられる、ここまでは教えておられる。けれどもね、おかげがあるとか、ね。触ることないとかという断言は、絶対に、してはないということです。この辺ですよね、素晴しい事は。ね。だから、私共が、本当に、ここのところを信じて行ずるところにです。確かに、さあ、例えば、ほんならね、風邪を一つ、引かせてあ頂いてもです。ね。それこそ、その風邪を頂きますという心あらばです。風邪は引いて、ゴホンゴホン言いよってもです。御用に差し支えるようなことは、絶対にないです。寝付かんならんていう事はないです。ほんなら、私は、この頃から、寝付いたと言う。ね。そこに、私共の、いうなら、まだ、信不足だなというう事を、私自身悟るのです。だから、信心の、一つの進め方という事ですかね。だから、教祖の言葉そのものは、絶対のものなんです。ね。三代金光様の、いわゆる、奥様、菊代姫などは、もう、お若い時から、胸が悪かった。亡くなられるまで、ね。三代金光様が亡くなられて翌年亡くなられた。何十年間という間を、いわゆる、胸の病気であった。だから、朝、起きる、起きられる時には、もう、大変、やっぱきついとおっしゃったそうですね。けれども、金光様にお願いをして、起きらせて頂きますとです。ね。一日、御用に使うて頂きますという、その一日が、何十年続いているです。いわゆる、頂きますという心だから。もう、それこそ、お若いときなんか、沢山なお子様が、次々と出来て、あの、お子様、おんぶしながら、御神米折などなさったというほどしに、いうならば、あー、家庭の事を切り回しておられますですね。ね。だから、あのお年になられるまで、胸の病気は、持ちながら、お役には、ね。朝、起きるときに、やっぱり、そこんにきがその、いわゆる、観念というものがすっきりしとらんとですよね、まあだ。だから、起きるときにはきついて、やはり。普通の健康なものなら。けれどもね、金光様におすがりをして、起させて頂くと、あとは一日、御用が出来ますと仰った。ね。ですから、ほんなら、風邪じゃろが、何じゃろがですよね。ね。本当に、私共が、その頂きますと、その風邪をいただきますという心あらば、それは、少々、熱が出るかもしれません。咳が出るかもしれません。けれども、御用には、決して差し支えないようなおかげが受けられるというのが、金光様のご信心であって、ね。それを、例えば、ほんなら、何日かでも、私の場合、休ましていただいた、それは、風邪だから寝とるじゃない。これは、私の、ここんところの、頂きますという心が、まあだ薄いから、寝らなければならない結果になったんだと、私は思うとります。ね。金光様の信心さして頂いて、この、なら、三十二節だけを、本当に体得させてもろうて、本当に、この気持ちにならせて頂いたら、もう、おかげがあると断言しておられますもの。ね。「地を拝んで抜くような心あらば、心になればおかげがある。」と、それをまた、「煮て食する時に、神様頂きますという心あらば、あたることない」ね。例えば、ほんなら、私が、糖尿病で、甘いものいかん、辛いものいかんというけども、今、私は、毎日、もうあの、朝鮮、朝鮮ご飯を食べとります。こんな丼にご飯を入れてですね。おつゆを入れる。そしてもう、朝鮮、もう、真っ赤になるぐらいに胡椒を入れるんです。でないと、この頃、いけんのです、普通のご飯が。それで、胡椒のいきで頂いてます。糖尿病に、それが良かろうはずがありません。普通、医学から言うと。お酒も飲みます。牡丹餅も頂きます。けれども、私は、頂きますという心があるから、糖尿病に触らないです。ね。ちーっとどもは、さわりよるかも知れません。けれども、この頃、おかげで、段々、糖が出らなくなってきております。だから、もう、医学から言うたら、もう、全然、あー、もう、反対なことになる。いわゆる、金光様のご信心は、頂きますという心あらば、ね。だから、あれは食べちゃいかん、こら食べちゃいかんじゃない。それを頂きますと。そら、食べようごつない物まで、食べろということじゃないです。はあ、食べたいと思うたら、それを、食べ過ぎらんように、ね。頂きますという心あらば、触ることない。あたることないと。これは、金光様のご信心に頂くものにだけしか、いただけないところのおかげ。ね。だから、えらい宗教が説いておりますけれどもね。物に感謝をしなければならないというところまでは説いておるけれどもね。感謝すればおかげがあるとか。あたろ事ないとかというような、断言して、教えておるのは、ひとっつもありません。ね。なるほど、そして、そういうおかげには繋がっていないです。金光様のご信心は、をさして頂く。そこんところをです。私共は、いよいよ、金光教の信心に、御神縁を頂いたということに、いわゆる、ね。大きな感謝をささげさして、先ず、頂かせてもらう。ね。同時に、合楽に御神縁を頂いたということが、有難いと分からせて頂いて、教えを受ける。そこから、例えば、その教えを、ね。親先生任せになればおかげになる。神様任せにおかげに、金光様任せになればおかげになる。同じことになる。ね。合楽に御神縁を頂いておるということに、有難いというものを、の、思いをね。一つ、いよいよ、強めさせて頂かねばならない。でないと、例えば、ね。明日の、春の御大祭という時にね、本当に、合楽ならではと言うおかげを受けておらなければです。ね。明日の御大祭は、いよいよ、有難い御大祭という雰囲気にも、盛り上がりにも、また、拝ましていただいても、有難いというものを受ける事は出来ません。合楽にご縁を頂いておる、そのおかげという、その念が強ければ強いほど、ね。有難い御大祭が奉仕できると思うですよね。どうぞ。